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学ばない子ども、学ばなければいけない子ども達 第1回

第1回 学ばないことに「勤勉な」子どもたち

これは僕の持論なのですが、単なる怠慢や不注意でここまで子どもたちの学力が下がるということはあり得ないと思います。子どもの側に断固たる「学ばない」という決意がなければこれだけみごとな学力低下は達成できるはずがない。これは学力向上努力の失敗ではなく、「学力低下努力の達成」とみなすべきでしょう。そして、子どもをこのような努力へと押しやっている強い社会的な圧力が存在する。僕はそのように考えています。


実際に小・中学校の授業風景を見てみると、子どもたちは授業を聞かないために全力を尽くしています。教師にこわばったように無表情な顔を向け、身体をねじまげてまで教壇に背を向けている。どうせ教室にいるなら前を向いて授業に耳を傾けて、その中から少しでも知的な喜びを見いだす努力をした方が時間の経つのだって早く感じられるだろうと思うけれど、むしろ何とかして学校にいる時間を不愉快で無意味なものにすべく努力しています。


この「勉強しないための努力」の理由が僕はずっとわかりませんでした。でも、教育学者の苅谷剛彦さんの97年に行ったアンケート調査の結果※、「学科が低下することから達成感と満足感を感じる」という生徒たちのグループが登場したことを教えられて、少し事態が理解できるようになりました。


学力が低いことが自己評価の高さに結びつくというのは、おそらく日本教育史上前例のない出来事だと思います。でも、今や相当数の子どもたちにとって、自己評価の高さは学力によってではなく、「勉強をして、いい学校に入って、いい会社に入って、レベルの高い配偶者を得て・・・」というキャリア・デザインそのものの凡庸さと無意味さを鼻でせせら笑う批評性によって担保されている。彼らにおいては「学びから下りる」ことの方が「学び続ける」ことよりも知的なふるまいだと思われているわけです。


この奇妙な行動はもちろん子どもたち自身の発意によるものではありません。学びや労働について現代社会に瀰漫(びまん)しているあるイデオロギーが子どもたちにそのような行動を選択させているのです。


子どもたちに、学校で一律同じ教科を学ぶことよりも、「自分らしさ」を探求することの方がずっと大切だというイデオロギーを吹き込んだのは直接にはメディアですけれど、実際には文科省も中教審も80年代からは「子どもたちの自分探しの旅を支援する」という旗印を国策として掲げていました。もちろん、財界も政治家たちもグローバリゼーションの流れに乗って登場した奔放で反抗的な青年起業家たちをさかんに持ち上げたのは記憶に新しいことです。


それに教師達自身も、自分が教えている教科が子どもたちにとっていったいどういう意味があるのかということを深く突き詰める努力を怠ってきたのではないかと思います。教師たちもつい「これは試験に出るぞ」という安易な動機づけに逃れてしまった。学校教育は何のために存在するのか、という根本の問いを子どもたちから突きつけられたときに、教師たちは「勉強すると自己利益が増大する」という功利的な「にんじん」しか子どもたちに提示することができなかった。実利的な「にんじん」を鼻先にぶらさげて何とか勉強させようとする教師と、学びから逃れることで自己評価を高めようとする子どもたちは、どちらも「自己利益の増大にはどうするのが有利か?」という実利主義的な問いを通じてしか考えないという点では同類です。その枠組みで考えている限り、自己利益の追求のために学びから逃れてしまった子どもたちはもう教室には戻ってこないでしょう。


※苅谷剛彦「階層化文科と教育機器---不平等再生産から意欲格差社会へ」(有信堂高文社)

 
 

内田 たつる

うちだ たつる

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程を中退後、同大学人文学部助手などを経て、現職。専門はフランス現代思想、武道論、映画論。著書に『ためらいの倫理学』(角川文庫)、『「おじさん」的思考』(晶文社)、『逆立ち日本論』(新潮選書・養老孟司との共著)、『身体を通して時代を読む』(バジリコ・甲野善紀との共著)ほか多数。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第6 回小林秀雄賞を受賞。